スニーカーショップ「atmos」を率いるディレクター
文化服装学院の卒業生たちの現在を追う、“文化つながり”のインタビュー集「LINKS(リンクス)」。スニーカーカルチャーを牽引するビッグネームのスニーカーショップ「アトモス(atmos)」をディレクションする小島奉文さんがここに登場!学生時代を社会現象になった原宿ストリートカルチャーとともに生き、スニーカーの道に突き進んだ小島さんの半生に迫った。
コロナ以降のアメリカ出張で感じた、ニューバランスの再ブレイク
2022年7月、約2年半ぶりに小島さんがアメリカに出張した。21年にアトモスがアメリカのフットロッカーに買収されたことに関連する仕事と、アトモスのアメリカの店の視察などが目的だった。現地で実感したのが、ニューバランスの人気再燃だという。
「知り合いが皆、ニューバラ、ニューバラと言っていて。ニューバランスの盛り上がりを感じました。街で履いている人もたくさん見かけました」
ニューバランスが日本で大流行したのは約10年前。アメトラファッションのリバイバル人気もあり、一部の男性だけが好んでいた同ブランドが一気にメジャーな存在になった。いま再ブレイクしている背景には、ボリュームスニーカーやダッドスニーカーの流行が飽和して、シンプルでローテクなものが新鮮に映るからかもしれない。小島さんはアメリカの空気を体感して、“生きた情報”を入手している。
「アメリカで流行るスニーカーは世界で流行ります。SNSで情報を拾うのではなく、体感することが大切です。生きた情報は信ぴょう性が高いですから」
こうして得た実感を元に、仕入れや打ち出しアイテムを決めていく。2000年に原宿にオープンしたアトモスが売上げもイメージの良さも日本のスニーカーショップのトップを走り続けるのは、小島さんをはじめとするスタッフたちがスニーカーの世界に情熱を注いでいるからにほかならない。
アトモス成功の秘訣は、続けてきたからこそ
時代に左右されにくいメンズシューズにも、服装のトレンドとリンクした流れはある。若者も大人も細身の服を着た2000年代(Y2K)にはしだいに、爪先が長いノングノーズの革靴が流行っていった。10年代になるとモードブランドのヴェトモンらの台頭でダボダボの服が最先端のスタイルに。服装のカジュアル化が進んだこともあり、モード派もカジュアル派もビジネスマンでさえも足元がスニーカーになった。スニーカーの人気はいまも勢いを増し、一大カルチャーとして世界中に広がっている。
「アトモスは90〜00年代のスニーカーブームが過ぎ去ったときでも店を続けてきました。儲からなくて他の店が撤退したときでも。続けてきたことが現在のアトモスに結びついたのだと思います」
そのように小島さんが成功の秘訣を明かす。
「アトモスの社風は、『毎日同じことをやる。でも新しいモノも探す』というもの。毎日ランニングする人はそれ自体がすごいことだけど、新しいこともやればもっとすごい。店の運営はそれの積み重ねです。若者にこの話をしても『うるさいヤツ』と思われがちですが、10人にひとりくらいはわかってくれる」
「僕自身いまだに探究心や向上心をキープできてます。それがなくなったら老いるってこと。でもまだチャレンジ精神があるんで、『イケるかな』と思ってます」
YouTube、Instagramでも活躍
人気の高さにあぐらをかかない小島さんは、PR活動にも熱心だ。いま力を入れているのがユーチューブ。チャンネル登録数6万人以上(22年8月現在)のヒットコンテンツである。
「ユーチューブはタッチポイントだと思ってます。スニーカー屋でこんなにユーチューブをやってる店はないんです。軽いノリで若者に見てもらえるものにしてます。最近の僕が街で話しかけられるのは、『ユーチューブ見てます』が圧倒的に多い。こだわりの強いスニーカー屋だと『動画なんてやらない』ってところもあるでしょうが、それだけに他がやらないから競合もいないんです。その結果、スポーツメーカーから『ぜひ撮ってください』と声がかかる。広告も入ってきます」
インスタグラムも小島さんの個人アカウント(@koji198139)でありながらフォロワー数9万4千人(22年8月現在)のすごさ。人が求める情報を発信する能力と情熱の結果だ。
ショップスタッフからディレクターに
小島さんの人生は、学生時代の延長線上にある。昼休みに学校を抜け出して原宿に通い、世界のストリートカルチャーに多大な影響を与えた90〜00年代の原宿の空気を目一杯吸い込んだ時代。
「文化に入学したのは、雑誌でよく見ていたジョニオさん(アンダーカバーデザイナーの高橋盾さん)やNIGO®さん(ヒューマンメイドデザイナー、現ケンゾーディレクター)の出身校だったから。当時はアトモスが誕生したばかりで客として通ってました。学校を卒業してアルバイトを探すとき、どうせなら原宿で好きなスニーカーに関わりたくて、アトモスの系列だったチャプターに勤務。スニーカーに夢中になったのは15、6歳ごろで、ナイキ・エアマックス95が社会現象になった時代。その思い入れをずっと引きずり、気づいたら20年以上経ってる感じです」
「店に立ったのは3〜4年ほどで、あとは事務所に勤務。スニーカーの別注デザインなどをやってました。ディレクター(プロデューサー)の肩書になったのは13年ごろでしょうか。現在の肩書は『メンズシニアディレクター』で、これは21年に当社を買収したフットロッカーから与えられた名称。やってることはなにも変わってません。仕入れ、PRマーケティング、USA・韓国・タイ・インドネシア・マレーシア・こんど出店するフィリピンを含めた店舗全般などあらゆることを。一般的な会社のディレクター業務とはぜんぜん違うでしょう。ほかを知らないのでよくわかりませんが」
独自のやり方で仕事の方法論を導き出した小島さん。“オリジナル”であることが、世界で高く評価される一因なのかもしれない。
スニーカー屋は天職
自身の仕事について小島さんは「天職」だと語る。
「趣味と仕事の境界線がありません。365日働いててもイケる。休みはいらないくらいです。というか、そういう性格でないとたぶん続けられないと思いますよ、この仕事は。世界中で毎日新作のスニーカーが発表され、オンオフ関係なく情報収集してます。『なんでも聞いてくれ』って皆に言うんです。『グーグルばりに詳しいから』って(笑)。興味があるから苦じゃないのでしょう」
アトモスのようなスニーカーショップで働きたい学生も多いだろう。仕事に向いている人について小島さんに尋ねた。
「まず、スニーカーオタクであること。そうでないとキツイと思います。コミュニケーション能力があり、好きなことを突き詰められる人も望ましい人材ですね」
働くことへの考え方は人それぞれでも、文化服装学院に入るような人は“道”を極めたいはず。「継続は力なり」の言葉を信じて周囲に惑わされず自身の世界を追求することが、確かな仕事に結びつくひとつのやり方なのだろう。
※2022年7月取材。
LINKする卒業生 ・山田陵太 (スタイリスト科卒業 現:ファッション流通科スタイリストコース) スタイリスト 「世界で活躍する同級生で、たまに会い情報交換する間柄です」 ・平健一 (スタイリスト科卒業 現:ファッション流通科スタイリストコース) スタイリスト 「アウトドア系のスタイリストで、一緒に仕事もしてます。彼も同級生で、共同でスニーカーをつくったことも」 |
記事制作・撮影(ポートレート)
高橋 一史 ファッションメディア製作者/フォトグラファー
明治大学&文化服装学院(旧ファッション情報科)卒業。編集者がスタイリングも手がける文化出版局に入社し、「MRハイファッション」「装苑」の編集者に。退社後はフリーランス。文章書き・撮影・ファッション周辺レポート・編集などを行う。
一般公開メールアドレス:kazushi.kazushi.info@gmail.com
関連サイト
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アトモスの公式販売サイト。https://www.atmos-tokyo.com/
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小島奉文さんのインスタグラムhttps://www.instagram.com/p/CgEhMibPRrn/
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アトモスのユーチューブチャンネル。https://www.youtube.com/c/Atmos-tokyo
INTERVIEW
メンズシニアディレクター
アトモス
小島奉文(こじま・ひろふみ)
スタイリスト科卒業
(現:ファッション流通科スタイリストコース)
1981年、埼玉生まれ。高校卒業後に文化服装学院に入学。夢中だった原宿カルチャーとともに生きるべく卒業後に原宿のスニーカーショップ「チャプター」に勤務。系列ショップ「アトモス」の内勤になり、2013年に現職に就任。メンズ部門を中心に幅広い活動を続ける。
INTERVIEW
メンズシニアディレクター
アトモス
小島奉文(こじま・ひろふみ)
スタイリスト科卒業
(現:ファッション流通科スタイリストコース)
1981年、埼玉生まれ。高校卒業後に文化服装学院に入学。夢中だった原宿カルチャーとともに生きるべく卒業後に原宿のスニーカーショップ「チャプター」に勤務。系列ショップ「アトモス」の内勤になり、2013年に現職に就任。メンズ部門を中心に幅広い活動を続ける。